「個性マーケティング戦略」と「キャラ化」と「私たち」

珍しくまじめに書いたブコメでスターがいっぱいついたから、書いてみるか。スルーされるのが常なのだが、そうでもなかったぽい。

『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠
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書いたコメントはこれ。

個性のマーケティング戦略。若い子はかなり自覚的だと思う。だから、キャラ化する。はずさないからね。個性の存在を一切信じていないことを聞かされるとさすがにびっくりする。

個性マーケティング戦略

もう何人かが指摘しているし、自身も認めているけど、シロクマ先生のいう個性の話は、なんだかんだいって古い。80年代的な個人主義と結びついた個性の話であり、素晴らしい自分を自分の中に見つける戦いだ。これを、そんなに否定するな!というコメントを寄せる人たちも、この80年代的気分を共有して、自分に内在する何かを信じているいるわけで、シロクマ先生はさぞかしニヤニヤしているのだろう。
一方、80年代を過ごしていない、今の大学生くらいには*1「なにいっているんだ?このおっさんは」みたいに感じられたいた様だ。そもそも、このエントリーで述べられる、個性のマーケティング戦略、顧客に対して売れる個性なのか、売れない個性なのかを評価して、選択と集中を行い、顧客満足度を高めるというのは、彼らにとって自明すぎることなのだ。個性がありふれてしまった今となっては、個性を売り込むためにはマーケティング戦略を練らなければならない。

キャラ化と「私たち」

しかし、彼らのいう個性とは自分に内在する何かではない。自分の外にある何かなのだ。個性というあやふやな自分だけのものを探すより、すでにあるキャラをかぶった方が効率がいい。
キャラはパッケージであり、一から個性を作る苦労に比べたら、楽ちんであり、学習も容易であり、コミュニケーション作法も教える必要がないわけで、コストが小さくなる。
また、彼らは、「一人っきり」という状態を極度に怖がる。個人主義的な個性において、「一人っきり」であることなんて、成り行きであり得ることであり、耐えなければなれない試練だった。しかし、彼らは断固拒否する。一人っきりではなく、検索で見つかる、少数の「私たち」を発見して、安心し、それに所属することを望む。
これは、ミクシーのコミュニティでよく散見される出来事だ。ミクシーにはコミュニティが自分を表現するアクセサリのように機能するのだが、これはあくまで出来合いのものを身につけているに過ぎない。このそこそこ人数(千人、万人)がいるコミュニティの組み合わせによって自己を表現しているのであって、「一人っきり」のコミュニティで自己を表現しようとしている人がいたら、「かなり痛い人」になるだろう。コミュニティの人数が可視化されている状態でのコミュニケーションなのだから当然そうなる。人数がそこそこいることが「私は痛くない」「私を痛いというなら仲間がいっぱいいる」ことを意味し、「安全・安心」である。

ローカル性

インターネットの登場が、孤立した「私」を小さな「私たち」に変化させたのだ。まぁ、よくあるネットの話だ。そして、彼らは、この「私たち」こそ、私の個性を表現するものだと主張する。こういう話を聞くと、僕も80年代的気分に毒されているので、多少めまいがする。「なんで、私たちが個性になるのだ?個性の個は個人の個だろ?」と。しかし、よくよく考えれば、何も変わっていない。80年代的な個性を彩った装飾品は、あくまで多品種少量生産体制による、大量生産物だったので、その奥には「私たち」がひっそりと潜んでいた。古いメディアの性質によって不透明*2にされていたものが、ネットによって可視化されただけなのだ。
「私たち」(集団)と「個性」がどうして両立するのだろうか?答えは簡単だ。コミュニケーションのローカル性を使うのだ。「自分の周りだけで、自分が個性的であればいい」のだ。だから、「キャラが被る」ということが問題になる。被ってしまっては、「個性的な自分」は演出できないからだ。この意味で周りに依存して(相対的に)個性が決まる。絶対的な序列で決まる個性なんて、ランキングが可視化されてしまう今、もはや特殊事例なのだ。
しかし、ローカルに逃げ込もうとも、「私たち」の存在は消えない。2003年頃、個性に関する言説が消えたということが関連エントリーのコメントで書いてあるが、ネットによって「私たち」の存在が可視化されてしまった以上、「私だけ」というのが大嘘になってしまったのかもしれない。ちなみに、ミクシーが登場したのは2003年だ。なにげに象徴的かも。
このような形で、自分の個性が決まるのだから、確固たる自分の個性など感じられるわけない。現にうちのゼミの学部生で、「自分の個性はまわりに決められたもの。自分の内面には存在しない」と言い張る人(K君)がいる。彼は、自己の個体とフィクションの個性とのズレは見ない、気にしないと決め込むらしい。その方がコミュニティにコミットメットし続けることが可能だろう。しかし、そのズレこそ、不良債権のように残り続けるのかもしれない。まぁ、彼はいろいろとお茶目なので、ほどほどに排出しているみたいだが・・・。


この話は、前に、そのK君とぐだぐだになりながら議論したことを含めつつ、僕なりにまとめた。

参考
http://mint-seijotcp.blog.so-net.ne.jp/2008-08-18
http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20090227#p1
書きたかったことが先にまとまっていてびっくりした。シロクマ先生のコメントが味わい深い。

*1:今の大学一年生は、平成生まれですよ

*2:街に出れば、可視化されるのだけど