ヴァーチャルの時代

朝日新聞の大晦日に、見田宗介さんの秋葉原事件の見解が掲載されていた。永山事件を社会学的に分析した「まなざし地獄」で有名な人だけに、N氏との比較で話が始まる。
N氏の「まなざし地獄」からK氏の「まなざし不在」という話が語られる。大澤真幸のサカキバラ事件の分析と似ているなぁと思った。
リア充」を敵にしている加藤は、リアリティを理想化し渇望しているという分析になっている。
「リアリティを渇望した加藤」ということである。

これは、濱野智史の「アキハバラ発!」での 論考に非常に近いもので面白かった。濱野の論は、「Vipperになれなかった加藤」であり、対になっている。ネタ的コミュニケーションに依拠できないというものであり、同じことを別の切り口から言っているような感じがした。

そして、見田氏は今までの「理想の時代(1945〜60)」→「夢の時代(60〜72)」→「虚構の時代(72〜95)」*1という日本の戦後の時代区分に加えて、95年からを「ヴァーチャルの時代」というのを定義していた。虚構を虚構として捉えるのではなく、虚構を現実にしていく時代という感じだ。ああ、なるほどな〜。という感じだった。

大澤真幸の「不可能性の時代」を読んでから、理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代 というのは、いまいちピンと来なかった。僕の読解力・理解力のなさすぎというのもあるのだけど、いまいち自分の頭の中でしっくりこなかった。自分ならなんて言うのか?ということをぼんやり考えていた。

また、涼宮ハルヒの憂鬱を見て、一番衝撃的だったのは、XXという世界に住むという想像力ではなく、現実世界を住み心地良くなるように改変していく想像力だった。ということだ。
「別世界への逃避ではなく、現実世界が変わらないなら、現実世界の"認識"を変えてしまえ!」ということだ。
このコンセプトは、割と、最近のネット文化に当てはまるような気がする。「俺の嫁」というのも直球でそうだし、人のキャラ化という現象もそうだろうし、「恋愛をフラグ管理で考えてしまう」というのもそうだろう。
その意味で、「ヴァーチャルの時代」というのはしっくり来た。

まなざしの地獄

まなざしの地獄

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

*1:年に関しては間違っている可能性大。うろ覚えだ