若手批評家サミット2008

濱野君が出るというので、後輩をつれて行ってきた。
基本的に、荻上チキさん、宇野常寛さんの話が早すぎで辛かった。あそこまで早い人は久しぶり。濱野君も結構しゃべりが早いほうだと思っていたが、上がいたかという感じだ。
なんというか、頭の中に文章がすでに大量に存在していて、それをひたすら出力しているのだろうな、としか理解できない事態だった。素朴にこれがタイピングの成果かとも思った。ある意味、対談の文章を高速で読んでいるような感じ。対談って、対談者がだらだらと適当に喋っていることを編集者が上手に纏めるものだと理解していたけど、そうではないのだな。
俺みたいな喋るのは遅いわ、文章を書くのが遅い人間にはうらやましい限り。コミュニケーションになっているのか?という疑問が出てくるけど、問題にしてはいけないことなんだろうな。世界のステージが違うのだろう、という感想。

しかし、コンテンツについて語ることの困難さをまざまざと見せつけられた感じだった。単純に、一つのコンテンツについて語るためには、大量の前提知識を喋らなくてはならず、それを喋ることに多くの時間が費やされた。これはあまりにも非効率すぎる。「社会的にみんなが見ているもの」というのがぶっ壊れているおかげでもある。しかし、アーキテクチャについて、語ることはそういうことには陥らないらしい。2chだったりミクシーだったりそういうのを語るのには前提知識は喋らなくていいらしい。その意味で、アーキテクチャを語ることがコミュニケーションツールとして有効であり、もはや、コンテンツについて語ることは、コミュニケーションツールにはなり得ないのだろう。これは、非モテ論壇がなぜ盛り上がるのか?と同じであり*1、コンテンツが見えづらくなっているということなんだろう。その意味で、そのうち、Webサービスをネタにした芸人が出てくるのだろうな、と書きながら思った。お笑いは社会的共有性がないと成立しないからね。一々長々と説明していたら成立しない。
イベントのテーマが「ウェブコミュニティとコンテンツの未来」だったけど、この文脈だと皮肉でしかない。仕組みとしてコミュニティの機能の共有性が高まるが、コンテンツの共有性は減衰しているのだから。
それにしても、自分の中のコンテンツ消費論が古すぎて反吐がでる。更新しないといけないな。

帰り、一緒に行った後輩とだらだら議論。俺も暇人だなぁって思う。

*1:個々のコンテンツを語ることよりもモテないということの方が共有しやすい